「星野仙一さんがどんな人なのか知りたい」
「星野仙一さんの素敵なエピソードが気になる」
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中日・阪神・楽天の3球団の監督と北京オリンピック日本代表の監督を務めた「星野仙一」。
ベンチにいるだけで監督なのに選手以上の存在感がある人でした。
試合中のグランドでは審判員に抗議する姿は正に闘将。
観客は選手のプレー以上に惹きつけられる人も多かったのではないでしょうか。

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星野仙一さんの経歴

岡山県立倉敷商業高等学校、明治大学を経て、1位指名を受けた中日ドラゴンズで投手として活躍し、1974年のリーグ優勝に大きく貢献。
意外なことに星野自身は阪神ファンでしたが、阪神と明治大学の仲が悪く阪神から指名された場合は、社会人野球に行くことになっていました。

監督としては、中日では1988、1999年と2回のリーグ優勝、阪神では2003年に18年振りのリーグ優勝をさせ、楽天では2013年に球団創設9年目のチームを初の日本一に導きました。
監督として3球団でのリーグ優勝は史上3人目、17年で1181勝をあげました。

星野は死後も高い人気を誇っている野球人の1人です。
その人気は現役時代の野球選手としての活躍や監督としての輝かしい成績にもありますが、やはり星野自身の人柄によるものが大きいでしょう。

監督して選手の心をつかむ上手さに定評がある反面、選手は威圧的な振る舞いを非常に恐れていたともいわれています。
グラウンドでは闘志をむき出しにする激しい気性でしたが、グラウンドを離れると気配りを欠かさない人でした。

星野らしい監督時代のエピソード

星野らしい監督時代のエピソードの1つに、巨人ファンが忘れられない2003年10月7日、甲子園球場の巨人対阪神最終戦での出来事があります。
この年の原監督は志半ばで巨人監督を辞任することが決まっており、この時すでに阪神はセ・リーグ優勝が決まっていました。
試合終了後、本来であれば六甲おろしで盛り上がるはずが、タイガースファンで埋め尽くされたライトスタンドから沸き起こる「原辰徳」コール。
ブルペンで不思議な表情で立ち尽くす原監督。
そのとき、場内にウグイス嬢の「読売ジャイアンツ・原監督に、阪神タイガース・星野監督から、花束が贈呈されます」というアナウンスが響きました。
花束を渡した星野は「ご苦労様。くじけるなよ!これからだぞタツ!必ず帰って来るんだから」と原監督に声を掛けたそうです。
星野が花束を渡し、抱き合ったシーンは感動的でした。
原監督は「私は“夢のつづき”を胸にしっかりとしまい込み、温めて、宝物にして、明日から生きてまいります」と言ってグラウンドを去っていきました。
巨人ファンとかアンチ巨人とかは関係ない、見ている人が全員、原辰徳という人間を心から応援したくなった瞬間です。
原監督の無念を代弁したかのようなこのセレモニーは星野の粋な計らいにより実現したものでした。

星野は家族をとても大切にしている人だった

星野は家族をとても大切にしている人でもありました。
家では完全な亭主関白でしたが、妻の扶沙子さんが白血病を発症すると、当時、務めていた中日の監督を妻の病気のことは言わずに、1991年「健康上の理由」として辞任しました。
辞任後は妻のそばを離れずに献身的な看病を続けました。
病状が快方に向かった時、扶紗子さんに「私ね、やっぱりあなたのユニホーム姿が一番好き」といわれ、星野は再び中日の監督に復帰します。
そして、復帰から1年後の1997年1月、扶沙子さんは享年51歳で天国へ旅立ちました。
星野は葬儀で「扶沙子は、こよなく名古屋を愛し、私以上にドラゴンズを愛し、頑張ってくれた」と話し、大粒の涙を流しました。
良いご夫婦であったことが偲ばれます。

選手に「人生の1%をボランティアに捧げろ」と説く

野球から離れたところでも、星野の人柄が分かるエピソードがあります。
小学6年生のとき、同学年の障害を持った友人を1年間毎日おんぶして学校まで登校していたそうです。
また、ボランティア活動にも情熱を傾けており、選手に「人生の1%をボランティアに捧げろ」と説いています。
実際、星野は毎年のように地元岡山の障害者施設に寄付をしていました。
1984年から岡山市にある福祉施設旭川荘を訪れ、多くの野球用具を寄付しています。
旭川荘ではティーボールチームが発足し、星野の名を冠したティーボール大会が毎年11月に開催されています。

星野は人格に優れ情にも厚い人ではありますが、ちょっと茶目っ気のある人でもありました。
熱烈な阪神ファンであったため、子供の頃は、阪神が負けた翌日は悔しまぎれに巨人ファンの人とケンカをしていたそうです。
また、卒業した明治大学に強い愛着を持っており、携帯の着信メロディは明治大学の校歌を使用していました。

まとめ

2018年1月4日、闘将「星野仙一」は永眠しました。
息を引き取る直前まで「コーチ会議に出られるかな」と言っていたそうです。
2015年より死去まで株式会社楽天野球団の取締役副会長を務めていました。
最後の最後まで、野球を愛し病と闘っていたのです。
今は天国で先に亡くならなれた妻の扶沙子さんと穏やかな時間を過ごしているのではないでしょうか。